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高森明勅
2018.6.6 07:00日々の出来事

27時間…

以前にも書いた事があるはずだが。

私がこれまで酒を一番長く飲み続けたのは、大学時代のある春の日。

例によって授業などはそっちのけ。

この日は早稲田大学に足を延ばした。

各学生サークルの新入生勧誘のシーズンだからキャンパスには
「出店(でみせ)」があちこちに出ている。

“出店”というのは、机と椅子を大学の中庭などに勝手に引っ張り出して、
サークルのメンバーがたむろす場所にしたもの。

今の大学では「立て看(かん)」と共に見かけなくなっているのではないか。

“立て看”というのは、自分たちの主張などを大きな文字で書いた看板を、
学内のあちこちに(これも勝手に)立て掛けたもの。

それはともかく、早稲田大学に行くと“民族派”系サークル「国策研究会」の出店が出ていた。

そこに先輩のK兄(けい)が1人でおられた。

出店の机には1升瓶が。時刻は午前10時頃。

春の日差しの中、早速、兄と2人で飲み始めた。

兄はいつも謙虚で紳士的。

決して先輩風を吹かせたりしない。

社会の巨大な不条理に憤りつつ、それ以上に厳しく、
自分が僅かでも他人に不条理な振る舞いをしないように、
自らを律しておられた。

それにしても近頃は、学内で午前中から酒を飲む学生の姿も余り見ない。

と言うか、当時も稀(まれ)だったかも知れない。

しかも私の場合、よその大学だ。

その後、同研究会の他のメンバーが加わったり。

夕方になると、6号館の地下にあった研究会の部室に移動。

その頃、早稲田大学の6号館地下には、
民族派系サークルの部室がかたまっていた。

「国史研究会」「国防部」など。

今はどうなっているのか知らない。

部室で他のメンバーも一緒に飲み続けて、
盛り上がった勢いで高田馬場の居酒屋に繰り出す。

居酒屋を梯子(はしご)して、終電もなくなったので、兄の下宿へ。

そこから再び2人で腰を落ち着けて飲み始めた。

兄の書棚には多くの本があった。

その中に『村上一郎著作集』(国文社)が並んでいた。

村上は、三島由紀夫の後を追うように、
昭和50年に自刃(じじん)していた。

兄はわざわざ村上の「草莽(そうもう)論」の一節を、読み上げてくれた。

「ああ、この人はそこに描かれた草莽の士のように、
激しい志を秘めながら、あえて市井(しせい)一介の無名の民として、
奥ゆかしく生きてゆこうとされているのだ」

と納得したのを、鮮やかに覚えている。

律儀な性分(しょうぶん)の奥に、
無頼(ぶらい)の血を微(かす)か潜ませておられた兄らしい、と。

下宿のトイレは共同。

何度かトイレに立つうちに、徐々に夜が明けてくる。

トイレの窓が開いていて、そこから見える景色が変わって行く。

それまで夜の闇に閉ざされていた桜。

薄明の中では七分咲き位に見えていた。

それがいつの間にか、春の明るい日差しの中で、満開に咲き誇っている。

時計を見ると午後1時。

もう27時間も飲み続けていた。

さすがに私も、兄に飲むのを止めて仮眠させてくれ、と申し出た。

兄はほんの少し残念そうな表情を見せたが、すぐに同意してくれた。

これが、私が酒を飲み続けた最長記録のはず…。

あの日、兄と語らった思い出を、私は生涯忘れないだろう。

兄が亡くなって既に月日が流れた。

でも、兄の清らかな魂を慕う気持ちは、今も薄れない。

世に隠れた詩人でもあった兄のソネットを1編、掲げておく。

悲歌

悲しき歌を奏(かな)でた日に
音もなく花びらは流れ
人々は過ぎ去ってゆく
忘却の彼方へと

花にうもれた奥津城(おくつき)に
剣(つるぎ)の墓標は朽ちてゐた
それは そのまま一群れの
哀しみに咲く花だった

野辺に立ちて いま思ふ
悲しき命つみ重ね私らはあると
さうして ひとはふたたび…

悲しき歌を奏でた日に
青い空は鳴り渡る
征(ゆ)くひとの出発のやうに

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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